”桐島、部活やめるってよ”にみる今の充実のさせかた

映画【桐島、部活やめるってよ】感想・考察。小説版との違いは?

コロナウイルスで春休みが伸びて学校の寮で映画観まくってます。

 

さてこの映画、小説も昔読んだのですが、面白かったのを覚えているのとどんなだったか忘れているのとで観てみました。

 

さすがの朝井リョウさん、異なるスクールカーストの人間が交わった時に起こる独特の空気感、雰囲気、カースト上位の生態、下位の生態、とてもじゃないけど表しがたい人間の気持ちの機微を絶妙に描いていると思います。ほんとすごすぎる

 

さてそんな名作”桐島、部活やめるってよ”を観て感じたことがあります。

 

それは

 

”僕らは才能、容姿、頭の良し悪し、何をとっても平等でも公平ではないこの世に生まれてきた。そして多くの場合、それにきちんと呼応する形で空気のようにしかしはっきりと明確に順位づけがなされる。だが日々の充実についてはその順位は一切関係なくその人がどれだけ物事に打ち込んでいるかで決まる。”

 

ということだ。

 

どこでこれを感じたか?

 

これは好対照の二人、カースト上位の幽霊部員野球部と、カースト下位の映画部から感じる。

 

カースト上位は女子にキャッキャいわれ、カースト最上位のマドンナ的女子と付き合い、何事にも本気じゃなくても大抵はうまくやれるという感じであった。実際小説でも、おしゃれでモテて、野球部の幽霊部員なのに部内で1番うまいという設定。その彼が映画序盤、「だから結局、できる奴は何でもできるし、できない奴は何もできないってだけの話だろ」といっていた。

 

しかし後半、カースト下位の映画部男子が映画について自分は映画監督にはなれないだろうと認めつつも映画撮影に打ち込む姿。自分より下手な先輩が、夜自主練をし、三年の夏が終わっても、ドラフトが終わるまでは、、、と部活に行き続ける姿をみて、何な感じるものがあったのだろう。不意にレンズを向けられ、映画部男子に”かっこいい”と言われたのになぜか涙ぐんでしまう。

 

大抵のことがひとよりできるということにあぐらをかき、じっさい何にも打ち込まない自分、カースト下位のくせに映画に打ち込んで今を燃やすもの、そしてそんな彼に対して”カースト下位のくせに”なんて感じてしまうことに情けなさやふがいなさ、いらだちを感じたのではないのだろうか。

 

本気だからこそ、困難にぶち当たるわけで

本気だからこそ、失敗があるわけで

本気だからこそ、成功があるわけで

 

そして何より

 

本気だからこそ、充実があるのではないのだろうか